西南戦争と西郷隆盛

西南戦争 


西南戦争は 西郷隆盛が起こした反乱だったのか?!

果たして 西郷は何を目指していたのか。

 

[西南戦争とは?]

西南戦争(または西南の役)は、明治10(1877)年に熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県における西郷隆盛を盟主にした士族軍と明治政府軍の戦いです。
明治初期に新政府に対して不満を持つ士族たちが起こした一連の反乱のうち最大規模でなおかつ日本最後の内戦となりました。

西南戦争-2

 

[西郷隆盛の失脚で状況が一変] (明治六年の政変)

明治6(1873)年に政府内で征韓論争が巻き起こり、賛成派と反対派に分かれて対立します。
西郷は信念に従って遣韓使節団派遣(遣韓論)を主張をしますが、様々な思惑や権力闘争が渦巻く明治新政府において最終的に受け容れられず、自ら潔く身を引きました。いわゆる「明治六年の政変」です。
西郷隆盛は参議筆頭という政府の要職をはじめ、一切の官職を辞任して鹿児島へ戻りました。

岩倉使節団-1

 

[私学校の設立]

西郷は鹿児島に戻って、私学校を設立しました。荒くれ者の武士たちに教育を施し、暴発を防ぐ目的でした。
しかし、生徒たちが西郷を慕う気持ちは強く、「なぜ西郷さんのような人を失脚させるのか。明治政府はけしからん。」と、西郷が下野したことは余計に士族たちの不満をかきたてることになりました。
西郷が明治政府から受け取った章典録(明治政府樹立の報奨金)をつぎ込んで章典学校を設立し、若者たちをまっすぐに育成しようと試みます。しかし、結果的には彼らの暴走を止めることができず、想いとは異なる方向へ自体は進んでしまいました。

 

[明治初期に士族反乱が起こった理由]

明治維新は薩長土肥の武士を中心とした革命ですが、明治政府が立ち上がると、革命を成功させた武士たちにとって厳しい政策が次々と採用されました。勝者の一部だけが利益を得て、大半の武士に不利益が生じたという点で、世界的にも珍しい革命です。
廃刀令や俸禄制度廃止などにより、士族の誇りは傷付けられ、生活に困るようになり、不満が募っていったことが一連の反乱勃発の背景にありました。

佐賀の乱

肥前の「佐賀の乱」では大久保利通と確執のあった元参議・江藤新平が処刑されました

 

肥前で「佐賀の乱」、肥後で「神風連の乱」、長州で「萩の乱」、そして薩摩で「西南戦争」というように、明治維新で中心になった藩の士族が反乱をおこしています。

神風連の乱

肥後の「神風連の乱」

 

萩の乱

長州の「萩の乱」では元参議・前原一誠が処刑されました

 

[西郷暗殺計画と明治政府の挑発]

当時、鹿児島は島津久光の意向で中央政府には従わない独立国のような状態でした。元々薩摩士族は郷土意識が強く、また最強の武力を誇っていましたので、明治政府にとっては脅威でした。 同郷の川路利良が鹿児島にスパイを潜入させ、西郷の暗殺を企てていたことが発覚すると、私学校生たちは反発を強めました。

最大の挑発は鹿児島の草牟田の「火薬庫事件」です。
薩摩側が武器・弾薬を使えないようにするため、政府は赤龍丸を綿江湾に入港させ、集成館などの火薬庫から弾薬を大阪へ搬出しました。
しかし、明治10(1877)年1月29日、政府が草牟田の火薬庫から運び出そうとすると、私学校の生徒たち20数名が駆け付けて小銃弾6万発を奪いました。さらに私学校生徒や士族たちも触発されて集まり、翌日には1,000人もが大挙して草牟田の弾薬庫を襲いました。続けて、磯の海軍造船所付属火薬庫や坂元村、犬迫村の火薬庫など20数ヶ所を襲撃し、数十万発の弾薬を略奪します。この一連の政府の行動は、薩摩側に暴動を起こさせるための挑発であるとも言われており、血気盛んな若者たちはまんまとその手に乗ってしまいました。

この知らせを聞いた西郷は「ちょ、しもうた!」とつぶやいたそうです。

 

[西南戦争マップ]

詳しくはこちらをご覧ください。 → 西南戦争マップ

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