西郷隆盛の失脚?! | 西郷隆盛とりびゅーと|せごどんのお湯割り

西郷隆盛の失脚?!


参議を辞任して鹿児島へ戻った西郷隆盛

なぜ西郷は 自ら明治政府を去ったのか?!

 

[西郷が失脚したとされる明治6年の政変とは?]

征韓論(遣韓論)をきっかけとしておこった明治6(1873)年一大政変のことです。
政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が辞職しました。

辞職した参議は、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平です。

征韓論争がきっかけとなりましたが、実際には新政府の要職者による権力争いや汚職隠ぺいのための政争に発展しました。

この政変で西郷は鹿児島へ帰り、そして西南戦争へとつながるため、西郷は「失脚した」とされています。

岩倉使節団-1

左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通

 

外国との不平等条約解消を目指した国書を提出するために岩倉使節団が外遊(1年9ヶ月)する間、西郷隆盛たちが政権を任されます。いわゆる「留守政府」です。

岩倉使節団には、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文が含まれ、留守政府は、三条実美(太政大臣)を筆頭に西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平、大木喬任たちで構成されました。

留守政府では征韓論争が行われ、西郷隆盛が提案する遣韓使節団が閣議で議決されましたが、岩倉使節団が外遊から戻ると、意見は対立し、思惑がぶつかり合うことになります。

結果的に岩倉具視の巧妙な企てが功を奏し、遣韓使節団の派遣は無期延期となりました。

ボブ
自らが全権大使となる使節派遣政策がひっくり返されたことについて西郷はどう考えていたのでしょう。

自分の信念を貫き朝鮮へ渡って和平交渉を成立させたかったでしょうが、明治という近代国家の枠組みが動き出した以上、その決定には従わざるを得ません。
しかし、それを受け容れた西郷にとっては、自分の新たな使命を見出す重要な出来事となったのではないでしょうか。

日本が真の近代国家となるための課題を胸に郷土鹿児島へ戻ったのだろうと思います。

 

[大久保利通との唯一の対立]

遣韓使節派遣反対派の中に大久保利通がいました。

西郷とは幼なじみで、ともに維新を実現した無二の盟友です。お互いを認め合い、強い信頼関係を築いた仲でしたが、この時は意見が対立しました。

このため大久保利通は、西郷隆盛を失脚させて死に追いやった張本人ということで、今でも鹿児島では人気がありません。(ガ~ン 涙)

西郷隆盛と大久保利通のつながりはこちらをご覧ください。 → 大久保利通

大久保利通

 

 [西郷さんを追い出すとはけしからん]

西郷隆盛は自ら政府に辞表を提出し、参議を含めた全ての役職を辞任し、鹿児島へ戻りました。
西郷を慕う旧薩摩藩出身者(桐野利秋や篠原国幹たち)も西郷を追うように辞任して鹿児島へ戻りました。

このことは日本中の士族たちに大きな影響をおよぼすことになります。

「西郷さんを失脚させた明治政府はけしからん。」
全国の士族たちの政府に対する不満は高まっていきます。

西郷を信奉する士族、西郷の力を利用しようとする者たち。
西郷隆盛という偉大な人物の周囲で様々な思惑と計画が渦巻きます。

特に士族の不満は一気に高まり、このあと各地で反乱が起こります。





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